Podcast 世界の思想家から学ぶ ~ エリアーデのインド哲学探求 / 一部を文字でご紹介

2023年09月10日

こんにちは。

みなさんいつもポッドキャストをお聴きいただきありがとうございます。

「世界の思想家から学ぶ~エリアーデのインド哲学探究」を7月・8月・9月と配信いたしました。感想を送ってくださった皆さん、シェアしてくださった皆さん、いつもありがとうございます。

今回のような哲学的言葉にあまり馴染みがない場合は理解するのに少し時間がかかるかもしれませんが、今のところ深いことは気にせず、ヨガの練習を続けたり、また、このポッドキャストの他のエピソードを聴いたりしてみてください。実際のところ、他のエピソードでは、暮らしの中で役立てていただけるよう、このような哲学的なことを実用的なことに転換してお伝えしています。

でも、これまでフィットネスとしてヨガをしていて、そもそもヨガって何だろうと思い始めた方には、やっぱりそうだったのか!とこのエピソードでも気づいていただけることが多いのではないかと思います。

 

このブログでは、9月に配信した第3回目の内容の一部を文字でご紹介します。このエピソードを聴いてみたけど、慣れない言葉が多かったなという方は、下記を見ながら聴いてみてください。

 


#25 世界の思想家から学ぶ

~ エリアーデのインド哲学探求 ③

 

9:42~

エリアーデが話しているように、「窮極的には最高の精神集中(samadhi)を得ようとすれば、人はこの諸々の「支分」を習得していなければならない」と。そして、これらの8つのセットは「最終的な解放を目指す精神的苦行の旅程」とエリアーデは語ります。

苦行の旅程と!そんな旅程をもらったら誰もそんな旅はしたくない!というふうに思うんですが、この苦行という言葉をどう捉えるか、難しいですよね。

はい。私は師匠の元で長年学んでいますが、一般的に考えられるような、例えば、長く、長い間断食をするとかそういった苦行はやったことはなくて、苦しいというと劇的に聞こえてしまいがちなので、別の言葉を使うと、一番辛いのは、自分の無知と直面する時ですね。無知のためにしんどい思いをするのは結局自分であって、そこから這い出すのは自分しかないと。そういう意味で、ヨガは人間の自立、本来的な自由を養ってくれるものだと思います。

ヨガを学ぶということは、自分で限界を作っている自分の小さな内側の世界を見たり、無限に広がる大きな世界を見たりして、私の経験では、辛いこともあるけれど、なんとも有難い旅程、旅路なんです。

 

はい、では、この心身を鍛錬していくという旅程の3つめで紹介されている「アーサナ」つまり一般的によく知られているヨガの練習について、少し詳しく見ていきたいと思います。

エリアーデは次のように話します。

 

第三の「支分」はアーサナ(asana)であるが、これは『ヨーガ・スートラ』(Ⅱ, 46)が「安定し、快い」(Sthirasukha)と定義したあの有名なヨーガの姿勢を指す。アーサナは数多くのハタ・ヨーガの論書の中で述べられている。パタンジャリはその大ざっぱな外枠を定義しているにすぎない。アーサナは師から習うのであって書いたものから習うのではないからだ。重要なことは、アーサナが身体に安定した硬直さを与え、同時に身体の努力を最少にするということである。このように人は、疲労、あるいは身体の或る部分における衰弱のせいでおこるいらいらする感じを避け、身体上の諸過程を調整し、その結果、注意力が専ら意識の流動的部分に向けられるようにする。はじめはアーサナに従って座ることは、不快であり、耐え難くさえある。しかし、ある程度の修練の後には、身体を同一の姿勢に置く努力は考慮しなくてもよいものになる。ところで(そしてこれが最も重要なことだが)その努力は無くならねばならない。瞑想の姿勢は自然なものにならねばならないのである。そうしてはじめて次の集中がおこなわれる。「姿勢はそれを保つ努力が無くなったときに完全となる。そうなれば身体にはもはや動きはない。同様に、心が無限性へと変形されたとき(anantasamapattibyam)- すなわち、心が心の無限性という観念をそれ自体の内容としたとき ―姿勢は完全なものとなる。」

 

はい、いかがでしょうか。では、詳しくみていきましょう。

アーサナというものは「安定していて、快いもの」というところですが、ヨガスートラの第二章46に Sthira Sukham Asanam とあって、アーサナとは安定していて心地よいもの快適なものであるというような意味合いですね。ヨガの練習を積んでいて、本当にアーサナが安定していて心地よいものであれば、すごく気持ち良い経験されている方も多いと思います。

 

重要なことは、アーサナが身体に安定した硬直さを与え、同時に身体の努力を最少にするということである。

 

はい、というところですが、そうですねえ。すごく同感です。もう、まさにシュリカリ!って思われてる方多いと思いますね、経験されてる方は。シュリカリでというか、伝統的なヨガや伝統的な実践での基本ですよね、完全にリラックスした状態だけど、ただ緩んでるんじゃなくて、しっかりしている。しっかりした状態で緩んでいる。緩んだ状態でしっかりしている。とでもいいましょうか。

ヨガの練習のしはじめは、腕がプルプルするとか、しんどいとか、お尻があがらないとか、そういうのはみんな経験する普通の状態でして、でも、繰り返して練習することによって、必ずこの境地、この、とっても気持ちいい境地に達することができます。だから、エリアーデはこういう風に話していますね。

 

はじめはアーサナに従って座ることは、不快であり、耐え難くさえある。しかし、ある程度の修練の後には、身体を同一の姿勢に置く努力は考慮しなくてもよいものになる。ところで(そしてこれが最も重要なことだが)その努力は無くならねばならない。

 

そして、次に述べられているように、体にも無理がなくなり、完全にリラックスした状態で、心にも無理がなくなり、心もリラックスした状態。まあ、実際、心と体は分けられないので、自分そのものが完全にリラックスの状態ですね。つまり、自然な状態。だから、エリアーデは

 

瞑想の姿勢は自然なものにならねばならない

 

と話しています。そうすると、次の旅へ進めると。次の旅としては、ヨガスートラの Vyasa のコメンタリーつまり解説が引用されています。

 

姿勢はそれを保つ努力が無くなったときに完全となる。そうなれば身体にはもはや動きはない。

 

つまり、ヨガのポーズというのは、これだけ足を開きましょうとか、痩せるために頑張りましょうということではなくて、そのアーサナいわゆるヨガのポーズをする努力が無くなって、必要なくなって、つまり、リラックスした状態でポーズを保つことができると、これが、「アーサナが完全となる」ということでしょうかね。みなさんどういう風に思いますでしょうか。そうすると、そこに不自然な動きやエゴなどはなくて、心が完全に自由な状態ですね。身勝手な自由ではなく、恐れがないという自由ですね。

そして、さらに Vyasa のコメンタリーの引用が続きます。

 

同様に、心が無限性へと変形されたとき(anantasamapattibyam)- すなわち、心が心の無限性という観念をそれ自体の内容としたとき - 姿勢は完全なものとなる。

 

はい。どうでしょうか。

ヨガのポーズというのは、努力なしでできるというだけではなくて、心の底からああ気持ちいいと、心に縛りがなく気持ちがいいという状況ですね。私ヨガをしているわーというようなナルシスト的な偽りの状態ではなくて、完全に自分を解き放った状態ですね。

少し難しい言い方かもしれませんが、今回エリアーデを学んでいるので、これまで学んできた言葉で述べるとすると、心が無知という束縛から解き放たれている状態とでもいいましょうか。

はい、みなさん、ヨガの練習したくなってきましたでしょうか?わけがわからないって方は、気にせずに、リラックスしてヨガを楽しんでください。わかるわーって方も、知的にならずにリラックスしてヨガを楽しんでいきましょう。

 


引用は、ミルチャ・エリアーデ(立川武蔵訳)『エリアーデ著作集 第九巻 ヨーガ 1』より。

本の中のサンスクリット語ローマ字表記には符号が付けられていますが、デバイスやアプリによってうまく表示されない場合があるので、ここでは符号をつけていません。

 

 

ありがとうございました。
Shri Kali Japan
中口朋子